バナナはおやつ

しがないOLの人生とその先について。

帰る場所の話

つい考えることをしないわたしになりたい、と、何度も何度も思ってきた。
また思っている。

 

一年以上ぶりに、地元に帰った。
久しぶりの実家は、記憶にある実家よりものが減っていた。
思い過ごしかもしれないけど、わたしが見ていた風景から少しずつ変わっていく景色に、寂しさと日常を感じてしまった。

 

わたしが毎日生きているように家族も毎日それぞれの人生を生きていて、生きていれば死ぬんだな、とも思った。

 

髪のボリュームが減った祖母に、以前より痩せた祖父。シワが増えた母と、小さく見える父の背中。

 

この人たちの愛に比べたら、わたしのやりたいことや考えていることなんて吹いたら飛ぶくらいちっぽけなもので、今の日常と比べてみたら、もう、何が大切なのかよくわからなくなった。

 

意地を張って、気を張って、わたしはなんで一人で生きているんだろう。この大好きな人たちに、あとどのくらい会えるんだろう。

 

 

なにも考えずに毎日ちゃんと働けていたら、こんなに後ろめたさや罪悪感は感じなかったのかな。
ちゃんと働きたかった。安心させてあげたかった。
不安そうな顔じゃなくて、喜ぶ顔がたくさん見たかった。

 

実家は「帰る場所」ではあるけれど、「居場所」じゃないのは重々分かっている。

 

もう、ほんとに、やだなあ。わたしに見える現実は、今目の前にあるひとつしかないのに。
やだやだ。

名前の話

 

わたしは、物に名前をつける習慣があった。

たぶんどこかのだれかに影響を受けた習慣なのだろうとは思うけど、そのどこかのだれかが誰だったのか、よく思い出せない。

 

「なんとなくかわいい女子に見られたい」と、「あまりにもわざとらしいのは嫌」という心理が働いた結果かな、と思っている。

 

いまになってみれば、何者にもなれなかったわたしが自分の持ち物に名前をつけて居場所を与える、って滑稽だな、と思う。

 

きっとあの頃は何者かになれると思っていた。

 

 

 

その昔、自分の所有物に名付けるときに、同じものは数あれど、私が気に入ってるのは世界にただひとつの「これ」で、絶対に離したくない、という気持ちがあった。

 

だけど、時代は流れて2018年、思い出はクラウドで共有できるようになった。

 

モノを所有することより、「ミニマリスト」と呼ばれるモノを出来るだけ所有しない生活が注目されているし、断捨離が活発にメディアで取り上げられるようになってからずいぶん経つ。

 

 

この前、断捨離をした。家の中にある、引っ越し以来開封していない段ボールをまるごと捨てたり、着ない服を捨てたり。

 

断捨離をあらかた終えて、モノに預けていた自分の一部である愛情を、自分の心に戻す作業が断捨離なのかな、と思った。

 

自分の一部とちゃんと向き合って、お礼をいって、自分の一部を自分のなかに戻す作業。

 

もちろん痛みは伴うけれど、「あの頃の自分」と決別して、これからの自分を前に進めるための燃料にするための作業。

 

似合わなくなってしまった服や靴、あの頃とてもすきだったアクセサリーに、思い出の詰まったいろいろ。

 

断捨離は、ものに執着することであの頃の自分に執着して前を向けなくなっていた、過去のわたしとの対話だった。

 

いつでも「身軽になりたい」と思っていたのに、一番の重荷になっていたのは私自身だったことにようやく気付けた。

 

私自身の価値観が、わたしを過去に縛り付けようとしていたんだな、と、やっと分かった。

 

 

モノに囲まれているのは、確かに安心する。だけど、ずっと「過去の私」に囲まれていたって、わたしはいつまでたっても何者にもなれないし、何者でもないし、私以外の他者にはなれないのだ。

 

社会生活のなかで与えられた役割を一生懸命こなしても、そこから滲み出てしまうものが個性になりうるものだし、そこからしか個性は生まれないし、わたしたちは生まれながらにして私にしかなれないんだな、と、感じた。

 

 

 

似合わなくなってしまった靴、昔の思い出も全部背負って、

ちゃんと自分の人生自分で責任を持とう、と、腹を括った出来事でした。

 

昔からの友人と未来の話

今日は久しぶりに美容院にいった。髪を切って、ちゃんと染めて、パーマネントをかけた。パーマネントをかける、という表現があっているかは分からないけど、生まれて初めてパーマネントをかけた。

くるくるでふわふわになった。わたしの朝の努力はお金を出せば買えるんだなと思ってしまったけど、それはそれ、これはこれ。初体験だった。すごい。

 

自分にお金をかけた分、自己肯定感は高まる。だけど時間をかけてもその分自己肯定感は高まるから、どっちがいいのかな、と思った。かわいいならどっちでもいいや、と思ったけど、お金で買ったパーマネントが取れてきたときに悲しくなってしまうから時間の勝ちかもしれない。いつだって自己肯定や自信には時間がかかるのかもしれない。

 

そのあと、友人と待ち合わせをして焼き肉を食べた。好きなだけ食べてから、ケーキを食べるために喫茶店に移動した。ケーキを食べてコーヒーを飲んだ。

それから少しボードゲームを広げて遊んだ。最初は不思議そうな顔をしていた友人の顔が、イライラしたり喜んだりしていた。そういう顔が見たかったからとても満足した。勝負はいつだって相手のいろんな顔が見れるから好き。普通に話してるだけじゃ見れない顔がたくさん見れるから、みんなボードゲームを本気でやったらいいのに、と常々思う。

 

そこから、昔話に花が咲いた。中学の話や高校の話、いまの恋愛の話。二人の間に山ほどエピソードがあって掘っても掘っても出てきた。お腹が捩れるくらい笑った。人生の半分以上トモダチでいてくれることが感慨深くて、我ながらいい関係だなあとおもった。

 

帰り道は寂しかったから、音楽のボリュームを何時もより上げて歩いた。ちょっとだけ冷たい風が気持ちよくて、だらだら歩いた。

 

お風呂からでて、フローリングにマットをひいて、ごろごろ転がりながらこれを書いている。

 

 

もう寝なきゃいけないけど、今日は人生の中でとっても大切な日だった気がするから、寝たくない気がする。

 

ほんとうに他愛のない日だったんだけど、大好きな人と会える幸せってこういうことかなって思ったし、やっぱりわたしは人と会うのが好きだ。人が好きだ。

 

 

例えば、予想もつかない出来事があって、なにも信じられなくなったって、 「いままでの自分に、いまの自分が救われることがある」ことを信じられる、そんな日でした。忘れたくないなあ。

大人と子供の話

 

大人になる、ってなんなんだろうなあ、と、考えることが増えた。

 

つい最近まで、就職活動をしながらニートをしていた。2社目の転職もうまくいかず、短期間で辞めてしまって、何をする気も起きずにご飯を食べて寝て起きていた。

 

ほんとうに毎日死にたくて、あれもこれもつまらなくて、でもほんとうに楽しい毎日だった。やらなきゃいけないことがなにもなくて、起きる時間も寝る時間も自由自在。昼間のドラマの再放送もみられる。深夜アニメだって海外ドラマだって見放題。元々なにもなければ家から出るのもいやなので、そんなわたしにはさいこうの毎日だった。もうほんとうに最高。楽しかった。

 

 

このまえ、恋人が有給をとってわたしのおうちで一日ごろごろしていた。わたしは朝会社にいったのだけれど、恋人に駅まで見送ってもらって、そこでばいばいした。帰り、恋人が駅まで迎えに来てくれた。駅からの帰り道、「今日は一日無駄にしたって感じがする。」と溢していたのが気になった。

 

よくよく話を聞いてみれば、「特にやることがなくてごろごろする休日は持て余してしまうし罪悪感がすごい」とのこと。

 

わたしは、この話を聞いて心底驚いたし勿体無いと思った。休みくらいすきに生きたら良いのに。

きっとこの人はちゃんとした人なんだな、と思った。労働をしてお金を稼ぐ意思があって、毎日こつこつ、とか、そういうことができるのかすごいな。と思った。

休みは休むためにあるんだから存分にごろごろすれば良いし、そんなの働くために生きているみたいだし、ほかにやりたいこととか、なにか……こう、人生の目標とか、日向ぼっことか、働くことよりも他のことに興味があるわたしの人生とは全然違う景色が見えるのかなあと思った。 

 

わたしが働き始めていたから、「心境の変化は?」などと聞かれたのだけれど、わたしは昼間の刑事ドラマの再放送が見れなくなったことが悲しいし、朝同じ時間に起きなきゃいけないことにストレスとプレッシャーを感じる。今はまだ自覚症状がないけれど、相当疲弊していると思う。と伝えた。

 

正直、わたしはわたしだし、覚悟していたよりもずっとみんなが優しく接してくれるから、拍子抜け、くらいの感覚でいるのだけど、そういうことは求められていないんだろうな、と思って口をつぐんでしまった。

 

働きはじめたって、心境の変化なんて何もない。働きたくない、としか思わない。だけど、使役され労働をすることが、分かりやすく手っ取り早くお金を稼ぐための手段であることは間違いない。だから、わたしは働く。

なんだけど、どうしても働きたくなかったり働けなかったり、働きたくなさが爆発することもあるし、その面では子供だなあと我ながら思う。

 

 

根本から行くと、こどもからおとなになってもなにも変わっていない。考えすぎる癖は抜けないし、何故を追求してしまうのも変わらない。だけど、自分で自分の機嫌を取れるのが大人になることなのかな、と最近は思う。

 

自分で自分のためにケーキが買えるし、美味しいものが食べられる。ヨガに通ったり、ふらっと新幹線や飛行機で遠出もできる。なぜなら我々は大人だから。

20年間生きてきたご褒美として、自己責任の名の下に自由が約束される。お金を稼ぐのもよし、お金を使うのもよし。借りることだってできちゃう。お酒も煙草もパチンコもできちゃう。こんなにたくさんある娯楽から好きなものが選べて、自由に謳歌できるようになる。

 

小さい頃、わたしの周りに、楽しそうに人生を謳歌している大人はいなかった。電車通学中に見かけるのは、暗い顔で満員電車に乗るサラリーマンと、疲れた顔したお姉さん。わたしは、大人になるのがひどく怖かった。

今になって、大人になって自分の好きなことができるところは悪くないな、とおもっている。

 

わたしは、小さい頃から「大きい会社でちゃんと正社員で働くこと」と「結婚して普通の家庭を持つこと」が「ちゃんとした大人になること」だと思ってきた。両親に言われてきたし、ことあるごとに期待されてきた。

 

「結婚して普通の家庭を持つこと」は早々に無理だと悟ったから、「大きい会社でちゃんと正社員で働くこと」は人一倍ちゃんとしようと思っていた。

 だけど、なんだかもうほんとに全部ぶち破りたくてむずむずするし、なんだかどうしたものかよくわからなくなっている。

自分で自分の殻を破るのが一番難しいな、とほんとうに思う。

友情と愛情の話

 

わたしには大学時代、暇さえあれば一緒に過ごしていた同じ大学の友人がいた。

 

元々彼女の友人で、そこからなぜか意気投合して二人でよく一緒にいるようになった。

学部が違ったにも関わらず、毎日飽きずに待ち合わせをして、カフェでお茶をして。今日のあったこととかやりたいこととかバイトの話とか、 将来の話とか。すごくたくさんのことを話したし、たくさんの時間を共有した。一週間と少し、二人で旅に出たり、知らない街に出掛けてみたり。彼女には話せないことをこっそり話したりもした。

 

その時の私のすべてを全部知っていたのはその友人だったし、友人のことを一番知っているのは私という自負もあった。「友達以上恋人未満」だったし、「悪友」だった。「相棒」で「戦友」だった。

 

大学を卒業してわたしが遠い場所で独り暮らしをはじめても、友情は続いた。旅行に行ったり、会って話す頻度は減ってはいたけど、この友情はずっと続くと思っていた。

だけど、そんなことなかった。

 

 

当時私には、高校生の頃から付き合っていた彼女がいた。若さゆえの不安定さを残しながら、周りにも恵まれて、高校と大学の思い出の全部が愛しの彼女(と平日の授業後はその友人)との思い出だった。そのくらい一緒にいたし、もちろんこれからもずっと一緒にいるつもりだった。

 

だけど遠距離になって、彼女と会える頻度が減って、そこに様々な理由が重なってお別れしてしまった。

そしてわたしはその直後、いまの恋人と出会って、お付き合いを始めた。今の恋人と付き合い始めたタイミングで例の友人と会う機会があった。

 

友人は、大学を卒業してから「婚約者が」とか、「~で声をかけられた男が」とか言うようになっていた。だが友人も(今は分からないが当時は)レズビアンを自認していたので、どう考えても、「好意を向けられることに喜んで相手の気持ちを踏みにじって弄んでいる」だけだった。

自己評価が極端に低い女だったので承認欲求を男に求めてるんだな、可哀想だな、程度にしか思っていなかったが、友人のことを思って注意してやれるほど善人でもなかった。わたしは「悪友」ではあったけど、友人の「家族」ではなかったし、「恋人」でもなかったから、自分で気付かないと意味がないんじゃない?と、一歩引いたところで話を聞いていた。 

だけど、そんなクソほどどうでもいい話を聞いていたら辟易する。

 

友人とご飯を食べながら、我慢の糸が切れたように故意に口を滑らせて恋人ができたことを友人に報告していた。

 

あの時の友人の表情はいまでも忘れられない。狐につままれたような表情をしながら、目から大粒の涙をポタポタ溢していたし、困惑していた。わたしも困惑した。

宥めても涙は止まらず、わたしも慌ててしまった。だけど見守るしか方法がなかったわたしは、端から見たら「友達を泣かした女」だったろうし、「間抜けな女」だったとおもう。

友人は混乱しながらその場で「裏切られた気がする」「仲間だと思ってたのに」と、絞り出すように教えてくれた。

 

その後、帰路につく友人を見送って、SNSで謝ったけれど、「こちらこそごめんね」という一言を最後に、こちらから連絡が取れなくなった。

 

 

当時、女の子がすきだったし、女の子しか好きになれないと思っていた。だから自分でも混乱していたし、私の人生最大の裏切りを許して貰いたかったんだと思う。今になって思えば、友人に甘えていた。いつもみたいに笑い飛ばすか、適当に流してくれると思っていた。 

だけどそんなのはこっちの都合で、そんなにうまくはいかなかった。泣かせてしまった。落胆させてしまった。

本人曰く、「推していたアイドルに裏切られてショックだった」と、共通の友人に内情を聞かれた際に例えて話しているようだった。

 

あのときの友人にもう一回会えたら何をどう話すのが正解なのか、未だに分からない。だけど、あの時の涙と友人の言葉が頭から離れないし、ふと思い出してしまう。

 

当時の恋人と別れた理由は1つではないし、2人の間の違和感を完全に他人に説明することは不可能に近い。だけどその努力をすべきだったのかなと今になって思う。

今の恋人と付き合っている理由も、ちゃんと話せばよかった。だけど、当時のわたしには、性別という大きすぎる、大抵の人が越えることのできない壁を体当たりで破壊して侵入しきた今の恋人について、ちゃんと言葉にする程の整理がついていなかった。今だったら当時より伝えられることは多いのかな、と思う。

 

 

 

なぜこんな昔話を唐突に始めたのかというと、昔の恋人が例の友人と久しぶりに会った行ったらしく、その時に私のことを聞かれたらしい。その他にも、同じように共通の友人から連絡があって、近況報告と共に「例の友人が気にしてたよ」と教えて貰ったからに他ならない。私自身も、ずっと引っ掛かっていた。

 

いま考えると、わたしは友人に依存されていたのではないかと思う。「悪友」とか「戦友」とか思っていたのはわたし一人だったのかもしれない。友人からすれば、わたしの「異性の恋人ができました宣言」で世界が終わったように感じたのかもしれない。今になっては何も分からない。

 

例の事件から年単位で時間が経っているので、あの頃よりもお互い大人になっていると思うし、大学時代の楽しかった思い出に嘘はひとつもない。あの頃はすべてが楽しかったし、それは全部友人がいてくれたからに他ならない。本当はもう一回仲良くなれたらいいのに、と思っている。あの頃みたいに一緒にベランダから朝日をみれたらいいのに、と思っている。

 

 

友情も愛情も、継続する努力とタイミングで全部雪崩のように崩れてしまうんだな、と、ここ一年くらいで痛感した。再構築するのもタイミングがとても重要だから、きっといま連絡しなければ生涯連絡を取ることはないのかな、と思うことも多々ある。今回のように。

友情と愛情の見分けもわたしにははっきり分からないのに、人間関係は選ばなきゃいけないし、私にはどうすることもできないことが世の中には山ほどある。だから両腕が届く範囲はせめて幸せであって欲しいし、私も一緒に世界一幸せになりたい。

 

覚悟と将来の話

この前、同棲を始めた友達のおうちにお邪魔してきた。

 

住所を聞いていたので、駅から歩いてひとりでおうちにたどり着いたんだけど、二人の価値観を表しているみたいなかわいいおうちで、外観を見たときに「愛の巣だなあ」と思った。

 

ふざけて「ただいま」って入ろうとしたんだけど、初対面の子もいたから大人しく「お邪魔します」っていいながら玄関で靴を脱いだ。だけどあとから話を聞いたら、他の子たちは「ただいま」って入ってきたらしい。わたしも「ただいま」と迷った、って言ったら笑ってくれて嬉しかった。

 

そこから夜ご飯を食べて、夜通しゲームをした。とてもたのしかったし、たくさん騒いだ。そして気付けば朝になって、おうちの住人の二人の話し声で目が覚めた。わたしたちはリビングの隣の部屋でマットレスをひいてもらって寝たんだけど、壁を挟んだところでお話している二人の声が、ぼそぼそ聞こえた。なんだか楽しそうで、二人の生活にお邪魔している感じがしてとてもよかった。そうそう、こういうのが見たかったんだよ。って思ったし、とても嬉しかった。起きてみたら太陽の日差しが綺麗だった。

 

そのあと、おひなまつりをした。ちらし寿司とお吸い物を振る舞ってくれて、みんなで食べた。薄味で安心する味がした。とても美味しかった。

 

 

みんながみんな、それぞれに世間と戦ってて、すごくいい空間だった。ほんとうに、あの場のみんながとっても好きだし、永遠に続けばいいのに、って思った。抱えてるものはそれぞれ違うし、色も形も重さも違うけど、毎日笑って、楽しんで暮らしたいみんなの気持ちが充満していて、とても幸せな昼下がりで、愛か溢れていた。きらきらしていた。

 

あのアパートには希望と未来が溢れていたし、根底には二人の覚悟が横たわっていた。綺麗事だけじゃ生きていけないんだなあ、って強く思った。

 

 

「わたしが先に介護されるかもしれないでしょ?」って笑って言い合える友達カップルたちがほんとうにかっこよくて、彼女たちみたいになれたらなあ、と思いました。

 

同棲と家の話

 

 わたしの家は、家族が法律だった。実家を出た今でもそれは変わらない。

 

だから、もし結婚とかそんなことになったら、両家への挨拶とか格式張ってちゃんとしてる結納とか、なんなら地域に伝わるナントカ行列みたいなのとか、餅を近所の人を集めて撒いたりするやつとか、披露宴は避けられないんだろうなあと思う。

 

わたしには結婚したことを披露したい友達もいないし、そこにお金をかけるなら、そのお金で旅先のホテルと道中の飛行機の座席をグレードアップしたい。余分に一泊したい。

 

ウエディングドレスを借りて、自分でメイクをして、着飾って、かわいいスタジオを借りて写真を撮りたい。写真が上手な友達に対価を払ってお願いできたら思い残すことは何もない。可愛さ(当社比)を保存できる。最高である。

 

……とまあ、こんなことをふわっと考えていたのですが。

 なんかもう全てがめんどくさくて砲丸投げしたくなるので聞いてください。

 

 

少し前、今の恋人と同棲の話が出たことがあった。ダメだとは分かっていながら、確認も込めて母に同棲に関する意見を求めたら、田舎の母が一人で乗り込んできたことがあった。誰かと一緒にしか乗ったことのない新幹線に仕事終わりに一人で乗って、都会の電車を乗り継いでわたしの一人暮らしの家まで急に訪ねてきた。

 

事前の連絡を全くせず訪ねてくる母にさすがに辟易したし、もう、ほんとうに嫌だった。ほんとうに嫌だった。ほんっとうに、ほんとうに嫌だった。どこにいてもこの家族はわたしの家族で、わたしは死ぬまでこの人の子供なんだなと突き付けられて死にたくなった。心配してもらっていることは分かる。とても分かる。感謝の気持ちもあるし、申し訳なさもあるんだけど、絶対に会わない。と思ってしまった。

 

死にたくなりながら話を聞いた結果、「私の中の価値観が~」とかなんとか言って猛烈に反対された。その挙げ句、今でもたまに「同棲は~」とか、思い出したように言われる。言われるたびに死にたくなる。

 

 

 

私の考えは、といえば、特にどちらかに固まってはいない。

同棲が結婚への必須条件だとは思っていない。なんなら付き合う期間だってどっちでもいいとおもう。相手による、というのかなあ。そんな感じ。

 

相手がもし一人暮らしなら、生活っぷりはおうちにお邪魔すればなんとなくわかる気がする。日々の会話のなかで一人暮らしあるあるとか、こんな料理がお手軽だよとか、そんな話題が出たり出なかったりでなんとなくわかるんじゃないかと勝手に思っている。本当の本当のところはわからないかもしれないけど、実家暮らしの人といきなり一緒になるよりいいんじゃないかと思っている。

 

今の恋人は、実家暮らしだ。


だからわたしは、今の人と同棲なしで結婚できる気がしない。

今は週末一緒に過ごしている。一ヶ月の週末が8日あるうち、5日くらいは一緒にいる。

わたしが一人暮らしだからわたしの家に来てもらっているのだが、本当に気を遣わせている。

 

私は、いくら恋人でも、「自分の家」だから好き勝手して欲しくなくて、だから気を遣って欲しいし、そうあってほしいのでそれでいいんだけど、それにしても日常の姿が見えない。何も見えない。

 

し、私も出来る限り取り繕っている。

 

一緒にいるときは、独り言で口汚く、机の角に小指をぶつけた自分を罵ることもしないし、使い終わった食器も洗濯もこまめに洗うし、お風呂も入りすぎなくらい入る。別に気が乗らないときもちゃんと恋人の話を聞くし、恋人がたまに手伝ってくれる洗い物に時間がかかりすぎても水を出しすぎていてもニコニコしている。脱いだコートをほったらかしにしていても、靴下が脱ぎっぱなしでも、大きい子供だと思って褒めて伸ばすことを心掛けている。 

 

もうわたしほんと偉くない???????

思い出したらイライラしてきた。

 

ほんとに、マジで、わたしの思った通りに動けよ今すぐ。って思うんですよね、イライラゲージが貯まると。 外にいたら貯まらないんです。自分のテリトリーじゃないから。だけど自分だけのテリトリーに入った瞬間すごい勢いでゲージが貯まっていく。

 

 

自分だけの部屋なら、部屋が汚いとか服が散らばっているとかの事象の原因が全てわたしだから自業自得だし納得もできるんだけど、自分以外の何かが散らかすのすごく腹立たしいんです。

 

それもあって家を出たいとずっと思っていました。自分だけの空間がとにかくほしかったので人と暮らすのはほんとうに向いていないし、子供なんて尚更だと思うんです。

 

だからね、一緒に住んでみてお互いの家事に対する本音を確認したりとか、これからちゃんと生活をしていくのがどれだけ難しいのか試した方がいいとおもうんですよ。

幸いにも今まで「家族のスペース」「自分のスペース」しか体験したことがないのでとても不思議だし、現実的に考えて「自分の部屋」は確保できるのか分からないので、一人になれる場所を探してさ迷う癖がある私は不安しかないです。

 

 

でも、両親が言う所謂「昔ながらの価値観」もわかる。分かるからこそ、勝手に出ていったところで事態は好転しないし今後気まずいのも嫌じゃないですか。だから相手が「説得できないなら勝手に一緒に住むしかないよね?」って言ったのが絶対に許せないんですよ。 

 

 

 

何の話かわからなくなってきたところでもうひとつ。家事に対する覚悟の話を。

先週末の話なんですけどね。

 

恋人とご飯を食べているときに結婚相手に求める条件の話になりまして。私は、「料理のできる人」と言ったんですけど、その一言が発端でした。揉めました。

 

私の発した言葉の「料理」の意味は、「献立を作買い物をして調理をし後片付けを行う、という工程を、家計のやりくりをしながらできる人」だったのですが、その認識が自分でも出来ていなかったので、「料理(調理)はやればできる」とか「死の危機に瀕したら作れる」とかガンガンに言われて八つ裂きにしてやる…ってくらいにムカつきました。ほんとうにそういうところ嫌い。

 

でもそれは私が言葉を整理せずに口から発したから悪かった。私の中の「料理」に対する認識を噛み砕いて教えてあげられなかった私が悪かったんです。

 

 

そこで意見を言い合うなかで、つい、「極論を言えば家事全部別でいいじゃん。」って言ったら「そうだよ。極論を言えば。」などと口走ったので、覚悟はできているみたいでした。

 

もう、なんか、果てしなくイライラしたしめんどくせーことこの上なかったので、そのひとことを聞けて安心しました。

 

最近、他人のこどもが可愛くて育児ブログをちょくちょく拝見しているんですけど、体力面精神面で子供を産むという行為が相当しんどそうなんですよね。だから早めに産みたいんですよ。産むなら。

だから逆算してみたらそろそろ同棲して半年くらいで結論を出してほしいなと思いました。

 

アラサーなので婚活市場でも市場価値が下り坂だし、可能ならば人生経験として一度は婚活もしてみたい。

わたしにはやりたいことがいっぱいあるし今後の人生設計も変わってくるので、こんなところで足踏みして若さを浪費するのは間違っているのではないかと思い至りました。

 

そして別に、待つ必要もないのでは、と。

自分の人生なので自分でなんとかしないと。

 

 

両親曰く、「入籍日決定の上結婚を前提に同棲」ならいいらしいので、こちらからプロポーズをして手っ取り早く同棲に持ち込みたく思います。

 

考えてもどうにもなんねーんだからさっさと動いた方がよくない?無理なら無理でしょ。

というのが現時点の考え。

 

 

勢い余ってとてもいいホテルとディナーを予約したので、半年後くらいに逆プロポーズしてこようと思います。ていうかもう時期は別としてお互いに結婚する意思が固まっていればプロポーズとかは再来週とかでもいいのかな。ウケる。

 

なにも考えたくなくて、さっさと白黒つけてやる。という気分です。