バナナはおやつ

しがないOLの人生とその先について。

名前の話

 

わたしは、物に名前をつける習慣があった。

たぶんどこかのだれかに影響を受けた習慣なのだろうとは思うけど、そのどこかのだれかが誰だったのか、よく思い出せない。

 

「なんとなくかわいい女子に見られたい」と、「あまりにもわざとらしいのは嫌」という心理が働いた結果かな、と思っている。

 

いまになってみれば、何者にもなれなかったわたしが自分の持ち物に名前をつけて居場所を与える、って滑稽だな、と思う。

 

きっとあの頃は何者かになれると思っていた。

 

 

 

その昔、自分の所有物に名付けるときに、同じものは数あれど、私が気に入ってるのは世界にただひとつの「これ」で、絶対に離したくない、という気持ちがあった。

 

だけど、時代は流れて2018年、思い出はクラウドで共有できるようになった。

 

モノを所有することより、「ミニマリスト」と呼ばれるモノを出来るだけ所有しない生活が注目されているし、断捨離が活発にメディアで取り上げられるようになってからずいぶん経つ。

 

 

この前、断捨離をした。家の中にある、引っ越し以来開封していない段ボールをまるごと捨てたり、着ない服を捨てたり。

 

断捨離をあらかた終えて、モノに預けていた自分の一部である愛情を、自分の心に戻す作業が断捨離なのかな、と思った。

 

自分の一部とちゃんと向き合って、お礼をいって、自分の一部を自分のなかに戻す作業。

 

もちろん痛みは伴うけれど、「あの頃の自分」と決別して、これからの自分を前に進めるための燃料にするための作業。

 

似合わなくなってしまった服や靴、あの頃とてもすきだったアクセサリーに、思い出の詰まったいろいろ。

 

断捨離は、ものに執着することであの頃の自分に執着して前を向けなくなっていた、過去のわたしとの対話だった。

 

いつでも「身軽になりたい」と思っていたのに、一番の重荷になっていたのは私自身だったことにようやく気付けた。

 

私自身の価値観が、わたしを過去に縛り付けようとしていたんだな、と、やっと分かった。

 

 

モノに囲まれているのは、確かに安心する。だけど、ずっと「過去の私」に囲まれていたって、わたしはいつまでたっても何者にもなれないし、何者でもないし、私以外の他者にはなれないのだ。

 

社会生活のなかで与えられた役割を一生懸命こなしても、そこから滲み出てしまうものが個性になりうるものだし、そこからしか個性は生まれないし、わたしたちは生まれながらにして私にしかなれないんだな、と、感じた。

 

 

 

似合わなくなってしまった靴、昔の思い出も全部背負って、

ちゃんと自分の人生自分で責任を持とう、と、腹を括った出来事でした。