バナナはおやつ

しがないOLの人生とその先について。

恋バナの話

わたしの周りには、性的少数者と呼ばれる友人がたくさんいる。かくいうわたしもバイセクシュアルと呼ばれる性的少数者なのだと思う。多分。

そんな人達に囲まれていると、とても気を遣う話題がある。

それは恋とか愛の話。恋バナとかいうやつ。


私は、人の恋愛の話を聞くのが好きだ。好きとか嫌いとかそんな話を通して、楽しそうにする友人を見るのがとても好きなのだ。

ここ数年、異性と生まれて初めて付き合ってみて感じたことがある。「思ったことはそのまま言えねえな」、ということ。


わたしは性的少数者でありながら、今はマジョリティ側の人間になってしまった。
いくら昔同性と付き合っていたからって、「わかるよ」などと言えなくなってしまった。そもそも立場も歳も抱えてるものだって全然違うのに何が恋バナだよ…とまで思うようになってしまった。

たとえば、誰かの「結婚」とか、「こども」とか。噂話のレベルでも話題にするのを戸惑う。

「結婚」やその他が、もし私の身に起きたらどうだろうか。
一番に報告したい人達なのに、そのまま、ありのままの気持ちを伝える前に受け取り方を考えてしまう。

傷つけたくない余りに言葉を選んで、なにも言えなくなってしまう。


自分自身、以前はそういう話題になると社会から疎外されている気がしていた。わたしたちがわたしたちでいるだけだと社会から認められないんだ、なかったことにされるんだ、と思っていた。

今思えば認知が歪んでいると思うが、10年前、思春期真っ只中のわたしはそう考えるのが精一杯だった。

そんな気持ちになってしまった過去がある分、友人に同じ思いはさせたくないし、気も遣わせたくない。


同棲の重さも違うし、結婚の重さも違う。子供をもつことの大変さも、世間の目に両親の目に親戚の目。何もかも違うのを体験してきたからこそ迂闊なことは言いたくないし、大切な人たちに悲しい思いをしてほしくない。

女の子と付き合ってきたからこそ気になってしまうし、周りの多様性を意識すればするほど当事者との溝が浮き彫りになってしまう気がする私の至らなさが悲しい。

考えすぎかもしれない。だけど、この問題はわたしが一生付き合っていかなければならないものだと思っている。

今のわたしは関わった全ての人で出来ているし、なかったことになんて絶対にしたくないからこそ、ちゃんと折り合いをつけなくちゃいけない。


私の過去の恋愛を知っていて、今の恋人のことを知っている友人に、「(異性と付き合えて)良かったね、安心した。」と言われてひどくモヤモヤしたことがある。

「そんなつもりじゃなかった」などといくら言われても、それは免罪符にはならない。ならないのだ。
モヤモヤは一生残るし、不信感だって拭えない。
口から出た言葉はなかったことにはできない。何があっても。

「言葉は力を持つ」なんてこと、生まれてこの方何千回何万回と感じてきた。

だからこそ、怖いから、傷つけたくないから口をつぐむのは絶対に違う。



多様性多様性などと盛んに言われている昨今、自分と異なるものを受け入れられない気持ちを抱くことが罪のような印象を受ける。


よくこの問題で、議論がすり変わっているのを見かけるが、根本的な原因はここにあるんじゃないかと思っている。

「自分がそう思っている」ことを認めたくなかったり、認められない自身のプライドが邪魔をするのだ。
「社会的な生き物」であろうとすればするほど、感情でなく社会常識で物事を推し量ろうとしてしまう。



多様性云々言う前に、「感情を抱くこと」は罪ではなく、寧ろスタートであることを意識して、自分の気持ちに素直にならなきゃいけない。

思ってしまうことは罪ではないのでそれを受け入れたうえで、考えることをやめたくないなあと思います。